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【川村エッセー:ときわぎ】日本を考え“発つ年”

2012年01月27日(金)

新年を迎える度に、心機一転、人として成長したいと願をかけてきたが、思うようにいかないのが人生なのであろう。振り返ると反省することばかりであるが、いくつになっても向上心は失いたくないものである。辰年ならぬ新たな人生への“発つ年”として充実した一年を過ごしたい。 

昨秋、ゴルフを楽しむために北見を訪れた、韓国のソウル大学放射線科の名誉教授であるH先生と食事をする機会があった。H先生は77歳、戦時中の教育で日本語が堪能であった。博学ぶりにも驚かされたが、「明治維新の大村益次郎について知っているか?」と聞かれ困ってしまった。どこかで聞いたことがあったような・・・名前であったが、どうも思い出せなかった。あいまいな返事をすると、「あなた不勉強ですね!」とお叱りを受けた。H先生から、司馬遼太郎の「花神」を読みなさいと言われ、早速本屋さんに注文した。 

【川村エッセー:ときわぎ】日本を考え“発つ年”

 「花神」は、長編小説であったので毎日少しずつ読み進んだ。大村益次郎とは、明治維新で活躍した、長州軍の司令長官のことであった。本名は、村田蔵六と言って長州の田舎で開業する町医者であった。若い頃、緒方洪庵の弟子となり、当時まだ珍しかった蘭学(オランダ式医学)を修めた。蔵六の翻訳能力は非常に高かった。江戸幕府は、諸外国から開国を迫られ、日本の防衛のため最新の軍艦や鉄砲などの知識が必要であった。そこで優れた語学力がある蔵六は、兵学の翻訳と教授をまかせられ、江戸で講習所を開いた。しかしながら、郷土愛が強い蔵六は、倒幕を目指す長州藩に招かれ、大村益次郎と改名し、やがて官軍を率いて幕府を倒すのであった。 

医者としての蔵六の評判は良くなかった。非常な合理主義者で、いわゆる愛想など全くない医者であった。かぜでかかった患者に、かぜに効く薬などない、暖かくして寝てなさい、とだけしか言わず、患者が怒って帰ることがあったそうだ。彼は、自分でも医者にむいていないと分析している。しかしながら日本を改革するために必要なことはなにか?それを綿密に計算し、実行する能力がこの人にはあった。残念ながら大村益次郎は45歳で、薩摩藩の刺客に襲われ、足のケガが元でこの世を去った。多額の借金を抱える現代の日本政府に必要なのは、大村益次郎のような私情、私利、私欲に走らない本当の合理主義者であると思う。同じ45歳になる身として、子供たちの未来のためにも、奮い立たねばならぬと思う。

 北海道新聞 エッセー:ときわぎ 2012年1月27日掲載

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